001|ビールの味〜船橋亭のものがたり〜

「久しぶりだからかしらね。すごく美味しいわ!」

その日その時のHさんの笑顔を僕は今でも忘れられません。

 

 

Hさんが船橋亭にいらっしゃったのは、平成26年冬のことでした。
圧迫骨折等による腰の痛みに悩まされており、30分以上座位が保てない為、ご自宅では食事とお手洗いの時以外はベッドで横になって過ごされていました。
認知症状はほとんどなく、ただ腰の痛みが強くご自宅での入浴や日常生活の維持が難しくなってきたという理由から、デイサービスをご利用になることになりました。

ご自宅から事業所までは車で片道20分程。
いつも助手席に座って頂くのですが、普段はにこにこと穏やかなHさんの表情が少しずつ険しくなっていきます。
そしてしばらくすると、

「痛い痛い、いたいいたいいたい。」
蚊の鳴くような声でHさんが痛みを訴えます。

なので、事業所でも基本的にはソファーやベッドに横になって頂き、活動にご参加頂く時にだけ起きて頂くような過ごし方をされていました。
痛みの程度は日によってムラがあり、食事ができない位痛みが強い日もあれば、比較的痛みが弱く体操等にもご参加頂ける日もあり、ただやはり全体的に臥床されている時間が大半を占めていました。
横になっていても眠っている訳ではなかったので、僕はよくお話をしていました。

Hさんのベッド脇に座って昔は農業をやっていて、その後はご主人とお肉屋さんを切り盛りしてきたお話。
ピアノが趣味だったHさんの影響で息子さんはプロのヴァイオリニストになり、お嫁さんはピアノの先生というお話。
話題が豊富なHさんとの会話は尽きることはありませんでした。

ある日の送りの車の中、西船橋駅近くを走行中に工事中の建物を見て、「ここは何のお店なの?」
Hさんが尋ねられました。僕が居酒屋であることを伝えると、
「行ってみたいわね。昔はよく家で呑んでいたからね」
「私ね、唐揚げって食べたことがないのよ。肉屋だったのにおかしいでしょ?」と仰いました。

その日から、「頑張ってよくなって一緒に居酒屋に行きましょう!」がHさんと僕との合言葉になりました。
それからというもの、一回の活動時間は長くはないものの細目に生活リハビリやアクティビティーには積極的に参加をされる等Hさんは以前より活動的になりました。この頃から格段に笑顔や会話が増えていきました。

 

タイミングは急にやってきました。

いつもは夕食前に帰宅されるHさんが、ご家族のご都合により夕食後までの延長利用になったのです。そしてちょうどその日はHさんと仲の良いM子さんだけが夕食のご予定の日でした。
Hさんに腰の状態を伺うとそれほど悪くなさそうで、
「夕食を居酒屋で食べませんか?」
と尋ねるとそれはそれは嬉しそうな表情のHさん。

僕はすぐにケアマネジャー、ご家族に連絡をし、外食の許可を頂きました。そして、Hさん、M子さん、僕を含めた職員2名で近くの居酒屋へ。

次々と運ばれてくる枝豆やお造り、焼き鳥に出汁巻きたまご。
美味しそうなお料理に、普段は食の細いHさんも嬉しそうに沢山召し上がっていました。
念願の唐揚げも「美味しいわ」と大喜び。


そしてふと、「少しだけビール頂こうかしら」Hさんが仰いました。
僕はビールを注文しました。小さなグラスに半分にも満たない量でしたが、Hさんは一口一口ゆっくりと味わうようにビールを飲みました。
そして一言。

「久しぶりだからかしらね。すごく美味しいわ!」

その日一番の笑顔でHさんは仰いました。気付けば船橋亭を出てから一時間が過ぎていました。

その間、「痛い」という言葉をHさんから聞くことは一度もありませんでした。
その日の外出が大きく何かを変えたという訳ではありません。腰の痛みは一進一退。
今でも臥床されている時間が圧倒的に長いという現実があります。
けれども、あの日あの時間、確実に痛みもつらさも忘れられる、楽しいひと時を過ごされたと思っています。

毎日特別なことは出来ないかもしれません。ただ日々の会話の中で、ポロッとこぼしてくれるご利用者の希望や願いを一つでも多く拾い上げ、楽しい時間を少しでも増やしていきたい。居酒屋で見たHさんの笑顔を思い出すたびに、あの笑顔を何度でも作れる介護職員でありたいと僕は強く思います。

 

 

 

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